草野の歴史

 草野町は中世の豪族、草野氏の勢力を背景に、筑後国の一大拠点として栄えました。平安時代末から安土桃山時代にかけて約四百年間の栄枯の面影を、今なお山麓営まれる神社や寺院、中世の城跡などの随所に見ることができます。



筑後国成立と草野氏の入国
源平合戦の手柄で筑後国在国司となった草野太郎永平

 発心山に登ると、筑後平野一面に広がる農地の中に基盤の目のような一町(約109m)四方の田畑が見えます。これは古代に施行された条里制という農地整備の痕跡で、国や地方国衙(こくが)(役所の意味)の租税確保と、班田農民への口分田配分のためのものでした。筑後国はもと筑紫国に含まれており、695年頃、分国によって筑後国の政庁が置かれたと考えられています。
 筑後国は十の郡からなっていましたが、その中の山本郡は現在の草野、山本、善導寺、大橋の四町を合わせたものでした。国には国衙(こくが)、郡には郡衙(ぐんが)が置かれ、政治的、文化的中心となりました。草野が歴史の舞台で脚光を浴びるのは、平安時代も末期になってからです。長寛二年(1164年)、草野永経(ながつね)が肥前国高木より筑後に入国し竹井城に居城してより、歴史は草野氏とともに展開することになります。草野氏は源平の戦いで、大宰府に入った平家に対して各地を転戦して源氏側を勝利に導き、源頼朝から文治二年(1186年)には永経の子永平が筑後国在国司・押領使に任じられ、所領三千町歩を有するゆるぎない基礎を築きました。
 今日も営まれる神社、寺院は草野氏の援助によって建立されたもので、歴代の草野氏によって手厚く保護され、耳納北麓に宗教文化が花開きました。



南北朝動乱 懐良親王(かねながしんのう)と戦乱の世

 懐良親王(かねながしんのう)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子で、延元三年(1338年)、九州での南朝(宮方)組織のため、征西大将軍として派遣され、瀬戸内海、豊後水道を経て四年後に薩摩谷山に上陸の後、その活躍が始まります。大平三年(1348年)には肥後の菊池武光に奉ぜられ、菊池、阿蘇の軍勢に支えられた肥後託摩原の戦いで足利直冬を、次いで筑後大保原の戦いで少弐頼尚を破り、大平十六年(1361年)には大宰府を制圧し、九州における南朝全盛期を生み出しました。
 しかし文中元年(1372年)、北朝の九州探題今川了俊によって大宰府を奪取されると、高良山などに拠って抗戦したもののふるわず、弘和三年(1383年)に親王が死去するや南朝は衰退に向かい、明徳三年(1392年)、南北朝和議が成立し南北朝時代は終わりを告げます。
 この南朝、北朝、佐殿方(すけどの)(足利直冬)の激しい激突の中で草野氏の動向は『草野文書』によって明らかにすることができます。南北朝前期は文書に北朝年号を使い北朝方(足利尊氏方)として戦い、その後、観応二年(1352年)の観応の擾乱(じょうらん)では一時期足利直冬方に、そして文和二年(1353年)からは南朝方につき菊池武光から軍忠状の証判をえるなど、まさに動乱の世相を反映するものでした。



生き残るための発心城築城

 戦国期末、大友、島津、龍造寺の抗争の中で、筑後の弱小の豪族は鳥合集散していました。天正五年(1577年)草野氏の末裔家清は、この戦乱を生きるため吉木八幡宮の裏にあった父祖代々の居城である吉木の竹井城に不安を感じ、見晴らしのいい発心城を築城します。翌年、大友勢が日向耳川の合戦で島津勢に大敗し、筑後の豪族の大半は龍造寺に服属することになりました。草野の諸家が発心城下に移り、天正十二年頃大友宗麟に背いた家清は高良山良寛や秋月長門守の軍勢により三年にも及ぶ攻撃を受けますが、一向に落城しませんでした。九州千早城と呼ばれる由縁でもあります。



草野氏の最後

 天正十四年(1586年)、島津軍が北上し筑後を攻略したため、大友方は秀吉に救援を求めました。翌年、秀吉は島津討伐のために九州に向かいます。島津氏が秀吉に降りると、家臣蜂須賀家政によって家清は肥後一揆に加担した疑いにより肥後南関で誘殺され、草野の一族郎党百余人は、涙をのんでこの城の地蔵鼻で自刃しました。天正十五年(1588年)、草野永平以来、二十余代約四百年もの間、耳納山麓に権勢を張った草野家は滅亡し、ゆかりの神社、寺院も衰退していくことになります。



草野の復興 街道の賑わいを物語る 歴史的町並み

 天正15年(1587年)、秀吉の「九州国割」で久留米城に入国したのが小早川秀包ですが、永勝寺に放火するなど神社、寺院も必ずしも安全ではありませんでした。関ヶ原の戦いで西軍に参加し敗北した後、慶長六年(1601年)には田中吉政が筑後に国主として入国し、新道をつくって町を建て、善導寺などの有力寺社の再建にとりかかり、その後、有馬豊氏が筑後北半二十一万石の大名として入国し草野の町は再興されました。



町家の町並みと農民の町並み

 江戸時代、久留米からの日田街道は山川町の追分で川辺道と耳納山麓へと向かう山辺道に別れ、草野はこの街道沿いの宿駅として栄えました。この道沿いにある須佐能袁神社を中心に元禄八年(1695年)頃には長さ五丁、軒数百四十軒余りの様々な生業をもった民家が集まり、大変な賑わいでした。草野の代表的な民家である「鹿毛家住宅」(県指定文化財)も江戸時代より醤油や櫨蝋製造(はぜろうせいぞう)、質屋などを営んでいました。18世紀後半に建造された建物は町家としてはもっとも古いもので、かつては数十棟の蔵が屋敷内に建ち並んでいたといいます。
 草野町の矢作地区は、南北に走る矢作道路に沿って、腰板しっくい塀水路や布積みの石垣、江戸時代からの大正時代の地主や豪農たちが築いてきた伝統的な農村集落の町並みが残ります。

−『みのうの豆本』−


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