須佐能袁神社は呼び名の通り素戔鳴尊(を主神としてお祀りしております。須佐能袁神社は、建久八年(1197年)平家討伐に軍功があり、源頼朝から筑後国在国司・押領使に任じられていた竹井城主草野太郎永平が京都の八坂神社より勧請し、創建したと言われます。当時、草野祇園社といい、草野家代々の守護神として崇敬厚く奉祀して来たったのです。
後に草野家は発心城に移り、その後下って天正十五年(1588年)、豊臣秀吉が九州平定の折り、蜂須賀阿波守(に命じ草野家の末裔である草野家清を熊本の南関に誘い、家清は誘殺されました。ここにおいて、二十余代約四百年続いた草野家が滅亡し、代わって草野町民の手により今日まで氏神として奉祀してきました。神仏混合時代には勝光山祇園寺と呼ばれていました。明治に至るまで幾たびか戦火に見舞われたといわれていますけれど定かではございません。
明治4年に神仏分離の政令により、今の須佐能袁神社(通称:ぎおんさん)と称するようになりました。現在の社殿および楼門は、明治十四年(1881年)春起工し、六年の星霜を経て、明治十九年(1886年)冬に完成に至りました。現在の社殿、楼門ともには総欅(を以って建立されています。また社殿の屋根は総檜葺(き、楼門は瓦葺きとなっています。社殿、楼門ともに数えきれない見事な彫刻が施されています。九州には有名神社はたくさんありますけれども、このこれほど社殿および楼門の造りと彫刻の調和がとれた神社は類例がありません。福岡県は昭和三十二年に本殿、拝殿及び楼門を県の文化財に指定しました。
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